ベッキー不倫騒動に思う、LINEスクリーンショット晒しの悪質さ。
こんにちは!
年明けから、芸能関係のニュースが色々盛り上がってますね。国民的グループSMAPの解散報道、ベッキーとゲスの極みボーカル川谷絵音さんの不倫。この二つですね。
今回はこの不倫スキャンダルについて、思ったことを書いてみます。
これまで清貧潔白なイメージを保ち続けてきたベッキーがスキャンダル?それもまさかの不倫??そんな感じで格好のネタとなってますね。相手方のバンド名がゲスの極み乙女ってだけに、それを捩った文章や記事が日々インターネット上に量産されてます。
まあどっちが悪いかとか、不倫がダメだとか、どういう対応をすべきだったかとか、そんなこといちいち書きません。どうでもいいですし、色んな人が書いてくれています。
僕の関心は
LINEが流出したこと!
「おそらく誰かがスクリーンショットで撮ったものが流出したのか?まあどんな感じで流れてしまったのかはわかりませんが、これが雑誌に掲載されたこと。
これはさすがにやり過ぎだ!!と思わずにはいられません。写真よりもよっぽど破壊力がある。やられた側はたまったもんじゃない。マイクタイソンのストレートパンチを心臓にモロに喰らった感じなんじゃないですか?
相手が芸能人なら何をやってもいいのか?どんなやり方でも許されるのか?相手の人間性を完全否定しにいくのか!ちょっと下衆すぎる。真のゲスの極みはこの雑誌を世に出した出版社ではないか?
僕がなぜここまで「これはアカン」と感じたかと言うと、実際にLINEのスクリーンショットを元恋人に晒されて、かなりショックを受けたやつが友人に一人いるから。
トーク内容の一部をスクショで写し、その本人がいないグループラインに撮った写真を貼りつけて「これどうおもう~?」なんて投げかけている人がいる。やってる本人は「この彼氏どう思う?」程度の認識でやってるのですが、それは夜どっかの個室居酒屋でカシスオレンジでも飲みながら話す女子会でやってください。ネット上で証拠をさらせば、高確率で本人にばれます。やられた方は当然晒した人間を心の中で恨み、場合によってはそいつを刺します。
ほんとこれって、だいぶ悪質だと思うんですよね。いじめと違いないじゃないですか!洒落のつもりが一番洒落にならないパターンです。
ネットでも、このLINEのスクショ晒しに対してなんらかの刑罰をつけるべきだと批判している人がいました。僕も同意見です。これはほんとに傷つく。あらゆるネット上の中傷行為の中でも最も傷つく。まさに公開処刑。
LINEだけに、やってはいけないラインというものがあります。これはほんと、洒落じゃなくて。みんな気を付けよう!
いじめ自殺ではなく、「いじめ殺人」。自分に合う場所へと逃げてしまおう。
痛々しいニュースが連日のように続いています。
もう、「いじめ自殺」というこのキーワードを連日のように耳にするようになりました。耳が慣れ、目が慣れ、本来強い憤りを覚えるはずが、最近は淡々と思うにとどまり、特別な感情を抱かなくなってきている。これは怖いことだと恐ろしくなる。
大学時代に出会ったある先生が言っていた
「異常なことを異常だと感じなくなることが異常である」
という至言をふと思い出す。まさにその通りのことが起こってしまっている。現実はまさに異常の一言に尽きる。
いじめについていつも僕が思うことは、いじめ自殺ではなく、「いじめ殺人」だということ。
一人を徹底的にいじめ抜き、暴力を浴びせたり、そこらの刃物よりも鋭利な言葉の刀を振りかざし、結果その人を死に追い込む。これのどこが自殺?なのかわからない。自殺というえげつない選択を決行させるまでイジメまくった、加害者側による殺人に思えてならない。
そしてここまで「いじめ」が社会問題化し、ジャーナリズムの渦中に常にあってもなお、いじめはなくならない。時代が悪いとかどうとかではなく、大昔から歴然と存在する大きな問題として在りつづけている。報道に取り上げられて会見を開く学校は依然として隠ぺい工作に余念がなく、「事実を確認中」「そのようなことがあるとは気づかなかった」などとお決まりの御託を云々主張しながら、人が死んだという重い事実を正面から捉えようとはしない。
僕としてはもう、いじめに合っている人は、とっとと学校を止めて別の場所に逃げるに越したことはないと思ってる。理不尽に傷つき、辛い思いをしながら重い足をひきずってまで登校する意味はどこにもない。最低最悪の場所からは逃げるに尽きる。自分を壊されない内に早めに手を打ち、快適な空間へと移動することが大事だと思ってる。
学校側は、今どうしようもなく辛い思いをしている生徒に対して、なんとか良い選択肢を教えてあげてほしい。学校が合わない子に何とかして学校を好きになってもらう努力をするのではなく、新たな学校や居場所を紹介するなどしてあげてほしい。
今、通常の学校に行くという選択肢以外にも、様々な選択肢が存在すること。そしてそういった選択肢が割と一般的に認知されつつあるということ。今いる学校をやめたとしても、他にも行ける場所がたくさんあって、後ろめたく思う必要なんてないということ。僕はこのことを主張していきたい。
例えば定時制や通信制高校、フリースクール。最近はオンラインで授業を実施している高校も珍しくない。さらにはスマホやタブレットを用い、自らのネット人格「アバター」を使って登校するといった驚くべきことを実施している学校もある。
*参考のため、一部の学校のURLを貼っておく。
今まさにいじめの被害にあっている人。そうでなくても今いる学校がたまらなく生き辛いと感じている人。ひたすら辛い思いをして、我慢してまで登校する必要はない。といっても、すぐに学校を辞めろなんて言っても困惑するだろうから、とにかく一旦学校を休んで、インターネットで色々しらべてみてほしい。
すると、今通っている学校が全てではないことが分かると思う。学びたいこと、やりたいことを諦める必要なんて全くない。学校一つとっても、その種類や形態は様々だし、学校以外の場所だってたくさんある。
多くの人が今いるどうしようもなく苦しい状況から抜け出し、自分にあった場所で輝けることを願って、この記事を終わりとする。
大人になることのむずかしさ。
どうすれば大人になれるのか?
はい!これ、最近の僕の疑問です!
今日は多くの地域で成人式が催されたということもあり、特に考えてみました。
みなさんは思いませんか?思ったことはないですか?
何を以て大人となるのか?
改めて問い直してみると、すごく難しい問いであることがじわじわ実感できます。
・二十歳となり、成人式を迎えたら大人?
・いやいや18歳から選挙権あるから、18歳から大人だ!
・経済的に自立できたら、その時点で大人だよ。
いろんなことが考えられそうですね。
そこで、この本の出番です。
この本は、思春期から青年期にかけての心の変化。それに伴う様々な行為にはどんな背景があるのか?ということがかかれています。
著者である河合隼雄さんのもとにきた、子を持つ親からの様々な相談を引き合いに出し、若者が直面する課題を掘り下げていきます。
初めにいっておくとこの本は、「親、友人、恋人といった、あらゆる人間関係を深く考えることができる名著です」
筆者はこの本の中で、
明確な通過儀礼(イニシエーション)がなくなり、どこからが大人なのか?自分は何者なのか?ということを確認する機会がないことを挙げています。
たしかに、成人のための儀式ってないですよね。成人式があるじゃん!ってなるかもしれませんが、あれってただ、着飾って式典にでて、終わったら同窓会にいって飲んで騒ぐだけじゃないですか笑。
そんなものじゃなくって、もっと本質的なモノ。それが大事になってくる。
河合隼雄先生はここで、「自分のコントロールを超えた、超越的な存在を認識すること」の重要性を語ります。
これは別に宗教に入って特定の神様を崇めることを言っているのではなく、世の中のありとあらゆる理不尽をどうにか受け入れることを意味しています。
確かに、自分にまったく非がないのに、思いがけない不幸や困難に見舞われることってありますよね。そういったことを諸々受け入れて生きることも、大人であることの条件だと筆者は語ります。
さらに、僕が特に目から鱗だったのは、「人とのつながり」という章に書かれてあることです。
この章では、仲の良い青年同士が、ちょっとしたことで突然口論となり、仲違いしてしまう例を引き合いにだしています。大学生の青年Aと、既に社会人となって働いている青年の二人です。
この二人は、お互いの下宿をたびたび訪問し合ったり、一緒にメシをくったりするような、いわば親友。いつメンと呼ばれる類の関係です。
ですが二人の間に亀裂が生じます。
理由は大学生のA君のことを、大学に行かなかった彼が密かに羨ましく思い、その気持ちが変な方向に発展して「大学に行ってるのにこいつは自分のことすらしっかりできねえのか!」と、心の中で少しづつ見下し始めたから。
友人関係って、対等な関係を保てなくなると崩れてしまいます。
でもあるとき、お互いのモヤモヤを打ち明けると、すぐにまた仲良くなりました。以前より増して仲良くなります。
河合隼雄先生はこれを「影の共有」という言葉で表現しています。「お互いの暗い部分を共有することで、腹の探り合いがなくなってスッキリするのです」。これって経験ありませんか?
こういったことが、大人になるための大事な一歩だと筆者は語ります。大切な人と良い関係を築いていけることは、大事なことです。
この章で筆者は「単純に他人を避難せず、生じたことを”我がこと”として引き受ける力を持つことこそ、大人であるための条件だ」と仰っています。この部分は特に、心の底から共感しました。ずっと大切にしていたい。
本書を読んで、ぼくなりに「大人とは何か?」をまとめると
「自分以外の人たちも同じ世界を生きていることを受け入れること」
他人を思いやれ!自己中ではダメだ!とかそんなことではないんです。
ただ、自分以外のたくさんの人も、この世で生きているという、ごく当たり前の事実を認めることが大人になるということではないか?
そんな風に思いました。
最後に、本書の中でもっとも励まされた部分を記しておきます
大人になるという決められた目標があり、そこに到達するというよりは、自分なりの道をまさぐって苦悶する過程そのものが、大人になることなのである。
今年の目標的な話。「好きなことをごまかさないこと」
こんにちは♪
2016年となりましたけど、一日は24時間だし、仕事もおんなじだし、俺は男だし、身長は175センチだし、体重は60キロだし、何一つ変化なく過ごしています。
まあ、それが普通ですよね。新年が明けたからと言って、なにも変わるわけがないんですよ。世間の一時的な盛り上がりによって「何か変わるかも!」と刹那的に思ってしまうだけです。
そう、誰しも骨の髄まで分かってるように、自分をとりまく状況はなかなか変わらない。一つの大きな節目であったとしても、具体的に何かをしなくちゃ何も変わらない。変わるのは干支だけ。
僕は昨年の2015年は記念すべき社会人デビューの年でした。まあ以前の記事にも書いた通り、それはあまりうまくいったものではなかったですが、充実はしていました。
そして2016年、社会人2年目となるこの年。僕はひとつ目標を定めてみました。
その目標は
「好きなことをごまかさないこと」
これです。
なぜかというと、社会人になったら日々の仕事に忙殺されてしまい、仕事を言い訳自分の好きだったことをパタリとやめてしまっていると感じたから。
あと、社会に出ると「仕事に直結しないことは全て無駄だ!」と考える人にも少なからず出会いました。「そんなことやってても儲からへんのやから意味ないで」と言っくる人も数人いました。
でもやっぱりそれは違うと思う。仕事に真剣に取り組む姿勢は素敵なことですが、忙しい時間の合間を縫いながら「好きなこと」をもっとしたらいいのでは?と昨年よく思いました。
お絵かきでも読書でも映画鑑賞でも音楽でもゲームでも、なんでもいいから自分の大好きなことはどんな形であれ続けたらいいのに!と言いたいです!
別に好きなことそれ自体として食っていくことは言ってません。もちろんそれならこの上ないことだと思いますが、そうじゃなくとも好きなことはやっていくべき。
たとえその好きなことが仕事に直結しなくても、自分と同じものが好きな人と営業先で出会って、共通の話題で盛り上がったりすることだってあるとおもいます。僕はこの前仕事でお会いした人とモンハンの話題で盛り上がって楽しかったです。
まあともかく、限られた時間の中でも大切なものは大切にしよう。
そんなことを決意した次第♪
ではでは今年も良い年にしましょう(*'▽')
北星学園余市高等学校という物凄い高校。
こんにちは♪
今日は最近気になっているトピックについて書いていきます。
いきなりですが
北星学園余市高等学校。
この学校をご存知でしょうか?
一昔前に話題になったドラマ「ヤンキー先生母校に帰る」の舞台。この原作「ヤンキー先生の夢」の著者、義家弘介さんの母校といったらピンくるでしょうか。
この学校は不登校や高校中退や引きこもり等々。様々な事情を抱えた子供たちが日本全国から集う多様な学校です。
最近この北星学園余市高校がメディアのトピックに上がってて、なんだろう?とクリックしてみたら、なんと、廃校が検討されてるとのこと。
ほんと、めちゃくちゃ驚きました。不登校や高校中退は依然として社会の大きな課題であるにも関わらず、その課題に正面から向き合っている数少ない学校であるこの学校が廃校を検討されている状況だなんて。
僕はこの北星学園余市高校に通っていた当事者でもなければ、知人に通っている人もいません。
ですが、大学時代、一般教養の教育学の講義を取っていて、この高校を取り扱ったドキュメンタリー番組を一度観たことがあります。
その時衝撃を受けました。なにより、学校だけではなく地域ぐるみで生徒と関わっていく姿に感動しました。学校の先生だけでなく、寮やその周辺にいる大人たちが生徒と語り合いながら、良いことも悪いことも受け入れあって成長していく様子がありました。
普通の学校なら、親以外の大人とここまで密接に関わる機会はないでしょう。学校にいる間のみ先生と会って、帰宅すれば親と会う。それが一般的です。
ですが、この学校は日本全国から生徒が入学してくること。また、北海道の余市町にあることから、親元を離れて寮で暮らす生徒も多いです。なんと寮生活や下宿をしている人が9割もいるという特殊な高校なんです。
それは、不登校や中退を経験し、自分の道に迷って居場所を失ってしまった人たちが「自分を変えたい」という強い意志を持って入学していることを意味しています。
この学校に来る人達は多様ですが、それぞれ「今の自分を変えたい!」という強い気持ちは共通しているのだと番組をみながら僕は思いました。
それぞれ重くて困難な状況を抱えながらも、そんな自分と真剣に向き合い格闘しているんだ!そしてこの学校の先生たちは未熟な自分と格闘する生徒と一緒になってスクラムを組み、前に進めるよう全力で戦ってくれる!
そんな素晴らしい学校が北星学園余市高校。僕の感じたことです。
人と関わること、人と向き合うこと、人が成長すること。簡単に語られがちなこれらの言葉を実践することは、本当に難しい。
誰しも一人では「自分はいったい何がしたいんだ?」「自分の価値って無いんじゃないか?」「生きることってどうしてこんなに辛いんだ?」と悩んでしまう。
自己肯定感というものは「人との関わりあいの中」で養われる。あの人と一緒に何かしたい!あいつに何かしてあげたい!人と顔を合わせ語り合うことで、そんな気持ちが沸き上がる。
僕自身が個人的に思う、高校生という大人と子供の狭間のような時期に一番大切なことは、「自分を必要としてくれる人の存在に気づくこと。」これが何より大事なものだと考えています。勉強なんかより遥かに大切なこと。
北星学園余市高校という学校には、「自分を必要としてくれるひとの存在に気づく」ことができる環境があるのだと、客観的に見て強く思います。
どうか廃校にならないでほしい!そんな願いを込めてブログに綴ってみました。
最後に北星学園余市高校に関する動画をここに上げておきます。実際に通う生徒さんの素敵なインタビューです!!
幸せは他人が決める社会。~社会人一年目の今年の気づき~
こんにちは♪
もう年の瀬。みんなバタバタ忙しい時期。昨日今日で仕事治めの人も、大掃除や年賀状、あるいは今年の振り返りに追われていると思います。
今年は僕自身、社会人一年目ということもあり、環境は割と変わりました。さあ仕事だ!みたいに意気込んでる中いきなり入院したり、やるはずだった仕事から外れてできることがかなり限定したり、大学時代アルバイトで溜めてた貯金(48万)も医療費などの予期せぬ出費のせいできれいさっぱりなくなってしまった。
まあ悪いことばかりじゃなく、イイことも結構あった。WEB上に書き散らしていた文章を読んでくれた人から仕事を頂いたり、その結果不登校支援業に携わることになったり。プライベートではなによりXJAPANのライブに行けた♪いいことも結構あったやん!!と思いながら、今このブログを書いています。
さて本題。
そんな社会人一年目の僕が、今年特に感じたことをまとめます。
それは「幸せは他人が決める」ということ。
「いやそんなわけないやん!」
「お前はそうなんかもしれへんけど、俺はちゃうで!」
そんな風にツッコまれそうですね。でも、ちょっときいてください。
今の若い人って、まあほとんどスマホ持ってるし、その中でラインやツイッターなどのSNSをやってる人も多いです。みんな自分の日常生活を惜しげもなく晒してくれます。てか、晒すことが当たり前になりつつあります。カフェとか行ってもまず料理をパシャっと写メるじゃないですか!笑
要は「他人にどうみられるか?」が至上の問題になってきてる。
まあ、こんなことは僕がいちいち言わなくとも色んな人が述べていることだし、敢えて言わなくていいのですが。
僕自身今年は余りに予想外のことが起こって、正直困惑してしまいました。今までわりにのんびりと生きてきましたが、
「これからどうしていこうか?」という問いに初めてぶつかりました。
たぶん社会人になって、今まで以上に周りの人のことを気にする機会が結構増えたんです。あの人は立派だけど、自分はなにしてんやろ?みたいな。
もちろんこれは当たり前のこと。学生の時に比べて責任というシビアな響きを持った二文字に付き纏われてしまう。嫌な人間とも上手く折り合い付けて仕事をしなくてはいけない。
さらに、学生時代と比べて話すことも幾分か変わりました。
どんなことが話題になるかというと
・結婚
・お金
主にこの二つ。
最近は忘年会シーズンですが、ほんとにこの二つの話題は必ず上がります。笑
・友人の○○さんが結婚すること。
・あの人の給料はいくらで、ボーナスにいくら貰ってる。
などなど。
だいたい自分以外の第三者を引き合いに出して話題に登場させることが多いなっとふと思ったんです。
別に特悪いことじゃありません。ただやっぱり、他人の状況を絶えず意識する機会にさらされているんだ!とふと思っただけです。
そして多くの人が身近な人をモノサシに自分の状況と比べてしまうんだとおもいます。それはほとんど生理現象的に比べてしまうんです。
社会人となると、みんなそれぞれ、面白いくらい固有の人生を歩みだしてる。会社勤めしている人が多いですが、料理人になるため修行に励んでいる人もいる。舞台俳優目指して稽古に励んでいる友人もいれば、吉本に入ってお笑いの道に進む為に頑張っている人もいる。
ほんとに色んな人生があるんだと思わされる。もう人と比べることがほとんどないように思える。皆違って皆いいんだ!と本気で思えてくる。
でも実際はというと、これだけそれぞれの社会的状況が異なる中でも、結婚や年収等の特定の価値を共有して比べてる。
幸せは自分ではなくて、他人が決めるもの。思わずそう考えてしまいました。
自分の人生は自分で決める!ということはシンプルなことだけど、結構大変なことらしい。
他人にまつわる色んな話を耳にして一喜一憂するのではなく、自分の持ち場で淡々と努力していこう!今年得た僕の考えはこんな感じ。
最後に一つ、良い本を紹介します。自分と他人をうまく切り離して考えられないという人は一度読んでみることをお勧めします♪
言わずと知れた大ベストセラーですが、ほんとに良い本なのでぜひぜひ♪
何者かになりたい!という気持ちとの付き合い方。
こんにちは!
あゆむです!
今日は「アイデンティティー」的なことについて書いていきます。
みなそれぞれ、ある段階で「~になりたい!」という気持ちを持ったことってないですか?
例えば幼いころ
・野球選手になりたい!
・ケーキ屋さんになりたい!
・お母さんみたいな人になりたい!
そんなことを突発的に思ったことって、あると思います。
「何かになりたい!」
そんな憧れがあるからこそ、セーラームーンや仮面ライダーが流行るし、ハロウィンなんかも盛り上がる!僕はそんな風に思っています。
その気持ちの程度はともかく、だれしも少なからず「自分以外の誰か、何かになりたい!」と感じているものです。
しかし、この「~になりたい!」という気持ちは、意外とプラスの方向には働きません。
なぜか?
決まってます。それは自分が望んだものにはなかなかなれないという現実があるから。
特に今の若い人は「何者かになりたい!」と過剰に思い過ぎています。
無論僕だって、何かになりたい!と、今だって思ってます。別に今の仕事に明確な不満があるとかそんなわけじゃなくって、自分の特技がパチッと嵌って、それによって周りの人が無条件で認めてくれるような何かがほしいなって思いますよ。
例えば写真が大好きな人が実際にフォトグラファーとして生計を立てていけることって、いいなあ!っておもいませんか?自分が望む何者かになって、それによって生計をたてることって、かなり凄いことのように思えます。
何かになりたい!って、なんで思うのか、まだいまいちわかんないですが、
きっと僕自身、自分に自信がないんです。
だからこそ、自分で自分を保つために、何者かになりたい。分かりやすく何かになれば、それ自体が鎧となって自分をうまく守ってくれるんじゃないか?
そんなことを一時期結構考えてました。
でも、分かりやすい何かになるのは難しいです。スポーツ選手や漫画家や料理人等々。それはほとんど自己を表現することにつながり、自己を表現することでメシを食って生きるなんてことは運や才能が必要な世界。
それにしてもなんで今、こんなにも「何かになること!」を渇望している若者が多いんでしょうか?
その理由は最近、ある本を読んで納得しました。ビートたけしの「新しい道徳」って本です。
簡単にまとめると、
今の若者は基本的にモノが溢れている時期に生まれ育ち、「食えないこと」の恐ろしさを知らない!
僕はこれをみて、ああなるほど!だからか!と思いました。
そもそも昔は自分の希望を自由に追うなんてことが難しかったんです。親の家業を継ぐのが当たり前であったりと、今より自由の幅は狭かったんだと思います。
では現在はどうかというと、それぞれの「やりたいことをやろうぜ!」って風潮が割とあって、一見とても素敵な時代なんですが、
やりたいことって何?俺って何が好きなんやろ?何かにならんとアカンのかな?と逆に迷ってしまったんですね。
自由すぎて、逆に縛られだした!おもろいですね…。
何かになりたい!と過剰に思い詰めることは、どう考えても生き辛いです。ほとんどの場合、日常に溢れる喜びを奪われてしまいます。
日々を精一杯生きながら、今日を無事終えたことへの感謝に浸りながら寝床につくことって、そんなにむずかしいことなんでしょうか?
自分の欲望や夢を追うのは自由ですが、どんな風に転がろうと自己肯定感によって支えられるべき。そうであってほしい。
うまくいかない時期をもっとうまく過ごしてほしい!
そう思って、徒然と綴ってみました。